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有名人と病気・胃がん・王貞治監督 その2



腹腔鏡下手術で胃がん全摘出、一日も早い現場復帰を願っています。

王貞治監督、早稲田実業のハンカチ王子・斉藤祐樹選手と同じ投手として活躍!!

数回に分けて、王貞治監督のご紹介をさせていただきます。

王貞治
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より


★現役選手時代

1959年に契約金1500万円で読売ジャイアンツに入団。同期入団には板東英二・張本勲・足立光宏らがいる。球速が遅かったため当時の監督・水原茂に「おまえはピッチャーとして大成しない」と言われ、すぐに一塁手に転向。

プロ初出場試合では国鉄の金田正一と対戦し、全打席三振に終わるが、この初出場試合の結果は長嶋のそれと同じである。入団3年間の打撃成績は通算打率2割4分2厘、通算本塁打37本、通算打点149で期待に応えたとは言えないものだった(実際、その頃「王は王でも三振王」などと野次られていた。ただし王がリーグ最多三振を記録した年はない)。そのため1961年には阪急のエース・米田哲也との交換トレードの話が水面下で進められたほどである(結果的に阪急が断ったため、このトレードは行われなかった)。

1962年にすくい上げる打法を矯正するため、荒川博コーチの指導の下で『一本足打法』を習得。この打法はアメリカでは一本足で立つ姿から「フラミンゴ打法」と呼ばれる。この時の練習の過酷さ、練習量を表すエピソードとして「練習に使った部屋の畳が擦れて減り、ささくれ立った」という話がある。

また、特に有名なエピソードとして、天井から吊り下げた糸の先に付けた紙を、日本刀で切る、という練習があった。これは、技術として日本刀で紙を切るほど打撃を研ぎ澄ませる、という以上に、打席内での集中力を高めることで余計なことを考えないでいいように、という目的もあったようだ。この練習がどれほどのものだったかは、当時のチームメイトであった広岡達朗と藤田元司がこれを見学していたことを思い出しながら「あまりに緊迫感のある練習だったので、それまでは後輩の練習がどれほどのものか、と胡坐をかいてのんびり見学してやろう、と思っていたのに、いつの間にか見学していた人間全員が正座して観ていたよ」とコメントしている。とにかくこの打法改造がきっかけとなって驚異的な勢いで本塁打を量産し始め、1964年にはシーズン本塁打55本の日本新記録(2006年現在ではタフィ・ローズ、アレックス・カブレラと並ぶタイ記録)、同年5月3日に開かれた阪神戦(後楽園球場)では1試合4打席連続ホームランを記録。当時の広島の監督である白石勝巳が、王の打球がフィールドの右半分に集中することを考慮に入れ野手の内6人をライト側に守らせる『王シフト』と呼ばれる守備体系を考え出したことで話題になった。

1971年の日本シリーズでは当時パ・リーグを代表する投手だった山田久志から逆転サヨナラ本塁打を放ち、チームの日本一に貢献。
1972年9月には公式戦7試合連続ホームランの記録を達成。これは1986年にランディ・バースに並ばれたものの、いまだに日本プロ野球記録である。
1977年9月3日、対ヤクルト戦で、アメリカメジャーリーグのハンク・アーロン選手が持っていた当時のメジャーリーグにおける本塁打記録(755本)を破る756号を鈴木康二朗から打つ(ただし、当時の日米のレベル差と日本の球場の狭さを考慮する必要がある。後楽園球場は両翼の実測が87mほどであり、外野に向かって傾斜が下がっておりバッターにとっては非常に有利な球場として知られる)。これにより、同年国民栄誉賞第1号を授与された。1980年に現役引退。現役本塁打通算868本は日本、アメリカともに未だ破られていない(ただし、ニグロリーグのジョシュ・ギブソンの通算本塁打数を962本とする説があり、断定できない)。また、通算OPS1位、13年連続を含む15回の本塁打王、三冠王2回などの記録も残している。ちなみに通算本塁打記録を球団がギネスブックに登録申請したが、日本の野球場がメジャーに比べて狭いとの理由から認められなかった(これは野球の世界に「世界記録」という概念がない、という立場からであって、前述のジョシュ・ギブソンの記録などと並んで記載はされている)。

日本のホームラン記録では、通算2位である野村克也の657本に200本以上の大差をつけている。野村は王と同年代に活躍した選手で、主な球場は後楽園球場と同じくらい狭い大阪球場であるが、このことからも王の868本塁打がいかに飛びぬけた記録であるかは容易に理解できよう。しかし、途中から兼任監督であった野村と直接数字の高下のみで比較するのはアンフェアであるという意見もある。

バットで残した記録に隠れがちだが、一塁手としての守備も高く評価されていた。特にショートバウンドの処理、バント処理が抜群で、1972年から制定されたダイヤモンドグラブ賞に、1980年に現役引退するまで毎年選出されている。現役最後の1980年には一塁手の守備機会連続無失策記録を更新(991守備機会連続無失策)している。ちなみにハンク・アーロンの本塁打記録に並んだ1977年8月31日の大洋戦とアーロンの記録を超えた9月3日のヤクルト戦では、「外野のファンにお礼がしたいから」と言って、途中から右翼手として出場している。公式戦で王が外野手として出場したのはこの2試合だけである。

王の打撃は1978年ごろから徐々に鈍り始め、1980年に「王貞治のバッティングができなくなった」と現役引退を表明。その年は打率は2割3分台(その年の規定打席到達者の中でもっとも最低の打率)とかなり悪かったものの本塁打は30本を記録しており、王自身の自身の打撃に対するプライド、またファンへの思いが窺える。引退セレモニーはシーズンオフのファン感謝デーの最後に行なわれ、ピッチャーマウンド上のマイクで挨拶があり、挨拶終了後に自ら左打席にバットを置きそのまま歩いて一塁ベース上にはファーストミットを置きに行き、同時に引退となる高田繁を呼び挨拶を行なうように呼びかけるという王の人の良さが最後にみられた名場面だった。この引退時のパフォーマンスは山口百恵のそれを取り入れた、といわれている。


★王選手の節目のホームラン記録の一覧表

※参考文献「週刊ベースボール」別冊1980年冬季号・王貞治 その華麗なる世界」(ベースボール・マガジン社)

号数 達成日 対戦カード 会場 投手
1  1959年4月26日 国鉄 後楽園 村田
4  ONアベック第1号 1959年6月25日 大阪 後楽園 小山
47 一本足第1号 1962年7月1日 大洋 川崎 稲川
50 1962年7月11日 中日 中日 権藤
100 1963年7月28日 広島 広島 大石清
150 1964年7月16日 広島 後楽園 池田英
200 1965年9月19日 大洋 後楽園 峰
250 1966年8月18日 大洋 川崎 新治
300 1967年8月31日 産経 後楽園 村田
350 1968年9月21日 中日 中日 小川健
400 1969年10月18日 中日 中日 外山博
450 1971年4月18日 広島 広島 外木場
500 1972年6月6日 広島 広島 西川
550 1973年6月21日 中日 中日 伊藤久
600 1974年5月30日 阪神 甲子園 谷村
650 1975年7月11日 阪神 後楽園 山本重
700 1976年7月23日 大洋 川崎 鵜沢
714
世界2位タイ 1976年10月10日 阪神 後楽園 古沢
715
世界2位単独 1976年10月11日 阪神 後楽園 山本和
750 1977年8月23日 広島 広島 池谷
755
世界タイ 1977年8月31日 大洋 後楽園 三浦道
756
世界新 1977年9月3日 ヤクルト 後楽園 鈴木
800 1978年8月30日 大洋 後楽園 大川
850 1980年6月12日 広島 後楽園 金田
868
現役最終 1980年10月12日 ヤクルト 後楽園 神部


★助監督・監督時代

1981年から3年間巨人助監督を務め、藤田元司監督、牧野茂ヘッドコーチとのトロイカ体制で1981年、1983年のリーグ優勝(1981年は日本一)に導く。

1984年から監督に昇格。1987年優勝しているが、惜しくも西武ライオンズに2勝4敗で敗れ日本一はならなかった。翌1988年は吉村禎章やウォーレン・クロマティのケガによるリタイア、西本聖の衰えによる投手陣の不調から2位に終わりフロントから責任を問われる形で退団。それ以後、何度か巨人監督復帰の噂が流れるが、王本人は否定している。この巨人監督時代には鹿取義隆を頻繁に使ったため、「ピッチャー鹿取」という流行語を生んだ(当時抑えを務めていたルイス・サンチェや角三男が安定感を欠くのに対して鹿取がコンスタントに実力を発揮したためで、このことから「酷使される」ことを「カトられる」と言うようになった)。

巨人退団後NHK野球解説者を務める。

1995年から福岡ダイエーホークスの監督に就任。当時のダイエーは前身の南海時代から続く長年の成績不振で、1996年5月9日の近鉄戦で敗れた後、日生球場から出てくるバスにファンの一部から「お前ら、プロか?」と言う罵声と共に生卵が投げつけられたり(これを俗に生卵事件と言う)、スタンドのファンから「王ヤメロ、王ヤメロ、やる気がないなら辞めちまえ」という辞任を求めた野次を浴びせられたり、「頼むからヤメテくれ、サダハル」「その采配が、王まちがい」などの横断幕が掲げられる光景もあった。それが原因で、心無い野球ファンからは「生卵サダハル」という侮辱に満ちたニックネームを頂戴するハメになる(余談だが、これらの暴挙は徳光和夫が『ザ・サンデー』(日本テレビ系)で「世界の王になんと言うことをするんだ!!」と一喝してからは誰もやらなくなっているが、それでも燻り続け、ダイエー初優勝時に裏番組である『サンデーモーニング』(TBSテレビ系)で王の親友・張本勲が「今までワンちゃんをバカにしていた奴等は皆坊主になって謝れ!!」と一喝してやっと収まったが、なんと3年を要した)。

その他1998年のスパイ疑惑などで監督批判が数多く報じられた。巨人監督を辞任する際にV逸の責任をフロントから問われた時とは違い、ファンの側から心無い仕打ちを受けるという、スター街道を進んできた王にとっては今まで味わった事のないほどの耐え難き屈辱を受け続けた時期が続いた。王はそれらに対し、ひたすら「俺は辞めない」「我々は勝つしかない。勝てばファンも拍手で迎えてくれる」と発言しながら耐え忍び続けた。一方でこの年はオリックスと同率ながら21年ぶりのAクラスとなる3位に入った。前身の南海時代から続いていたBクラスの連続年数はプロ野球記録であり、ホークスの低迷を象徴するものだった。久し振りのAクラス入りによって選手の勝利に対する意欲が高まり、翌年の優勝につながったため、非常に意義のある年だったとも王は後に語っている。

監督経験を重ねた力が実を結び、1999年に球団創設11年目にして初のリーグ優勝、さらに中日との日本シリーズも制し日本一に。翌2000年も優勝し2年連続リーグ優勝を成し遂げ、2003年にも再び日本一に輝く(2度の日本一になった年の日本シリーズでの対戦チームの監督はいずれも星野仙一であった)。2000年の日本シリーズは長嶋茂雄監督との「ON監督対決」として注目された。

2002年のドラフトでゲイビデオ出演が発覚して横浜に指名回避された多田野数人を事実を知った上で獲得しようとした。球団社長・高塚猛もGOサインを出したがオーナー・中内正の強い反対にあって実現はしなかった。このことから王はゲイに対する偏見はないと思われる。

2004年6月7日には日本ハム戦で監督通算1000勝を達成。監督就任11年目となる2005年1月28日、ホークスのソフトバンクへの正式譲渡と同時に取締役副社長兼ゼネラルマネージャーに就任(監督もそのまま兼任)した。2006年度も続投が決定し、就任間もない時期からは考えられないほどの長期政権となっている。

なお、指揮を取るホークスは2003年から3年連続レギュラーシーズン1位であるが、パ・リーグにおけるプレーオフ制度導入となった2004年、2005年と2年連続でプレーオフセカンドステージで最終戦まで行きながらも2004年は西武に、2005年はロッテにリーグ優勝を譲っている。

2006年3月開催の「第1回 ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)世界大会」日本代表チーム監督に就任。3月21日の決勝戦でキューバを10-6で破り、日本を初代チャンピオン(世界一)へと導き、選手として、監督としても世界一となった。WBC期間中のオープン戦の監督代行は、チーフ兼内野守備走塁コーチ・森脇浩司が務めた。

2006年7月5日の西武戦(ヤフードーム)後より、胃の上部に生じた癌の治療のためチームを離れて休養中。監督代行はWBC開催時同様、森脇が務める。術前診断は粘膜下層までの浸潤、1群リンパ節転移。7月18日、慶應義塾大学病院で腹腔鏡下に胃全摘・Roux en Y法再建と2群までのリンパ節郭清が行われた。8月2日に退院・記者会見。ファンを大切にする王らしく「みなさんの激励に支えられて生還できた」と喜びを語った。なお、術後の病理診断結果は公表されていない。

2006年秋ごろの復帰を予定している。




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